「ビー玉」(作詞・作曲:草野正宗/編曲:スピッツ)は、1991年3月25日にリリースされたスピッツのデビューシングル「ヒバリのこころ」のカップリング曲。同日発売の1stアルバム『スピッツ』にも収録されています。
スピッツの「ビー玉」は、子どもの遊び道具のような言葉や擬音を使いながら、かなり不思議な世界を描いています。
ビー玉は小さくて、丸くて、転がるものです。 それをこの歌では、タマシイの形として重ねている。
つまり、『ビー玉』=タマシイ。 そして「チィパ チィパ チィパチィパ」という音は、ビー玉同士がぶつかる音であり、タマシイ同士が触れ合い、傷つけあう音にも聞こえます。
かわいらしい擬音の中で、あの世っぽい表現をしている。
柔らかい毛布――夢の世界へ入る小道具
柔らかい毛布にくるまって ゆっくりうかんだら
この「柔らかい毛布」は、眠るための道具に見えます。
毛布にくるまって、体は現実に残っている。 けれど意識だけが、夢の方へ出ていく。
そう考えると、この歌には幽体離脱の初期イメージのようなものがあります。 眠っている体と、そこから少し離れていく意識。 毛布はその境目にある小道具です。
毛布が歌詞に登場するスピッツの歌は、他にも二つあります。
「君だけを」の中の “カビ臭い毛布を抱き” (「君だけを」の歌詞考察ページ)
「ババロア」の中の “柔らかな毛布を翼に変える”
同じく、身体から意識を抜け出したり、夢の世界に入ってしまうための小道具として使われているように思われます。
スピッツの歌には、現実からふっと抜けて、夢や妄想や死後の世界のような場所へ入っていく感覚があります。「ビー玉」は、その初期の原型にある歌だと思います。
ビー玉=タマシイ
チィパ チィパ チィパチィパ
この擬音は、少し意味がつかみにくい。
けれど、ビー玉がぶつかる音として読むと、少し見えてきます。 タマシイをビー玉に喩えて、そのタマシイ同士が転がり、ぶつかり、音を立てている。
となると、「タマシイ転がせ」というのは、恐らくタマシイ同士をぶつけるという意味もありそうです。ふわふわと漂わせるのではなく、ぶつけ合う。ビー玉のように、遊び道具のように。
その軽さが、逆に浮遊感を強調しています。命が、夢のような遊びの世界に入り込んでいる。
お前の最後をみてやる――タマシイの執着
お前の最後をみてやる
この言葉は、強い執着に聞こえます。
愛情とも、恨みとも、未練とも取れます。 「最後まで見届ける」というより、死ぬ瞬間まで追いかけるような響きがあります。ここで、「心中もの」のイメージとも重なります。
ただ、語り手は現実の場所にまっすぐ立っている感じが薄く、相手の終わりを、夢の中から、あるいはタマシイの側から見ているようにも感じます。
「お前」という呼びかけの強さに対して、毛布やビー玉の少し柔らかいイメージが包み込もうとしている。
涙の星――タマシイの形
涙の星になった
「涙の星」は、死を暗示しているようにも見えます。 涙は別れや喪失。星は遠くへ行ったもの、手の届かないもの。
けれど同時に、これはビー玉の形にも重なります。
涙の星も、ビー玉も丸く光るようなイメージで重なる。あるいは変容を表現している。「涙の星になった」なので、形あるものから、形の無いものへの変容です。
これも、肉体から抜け出していく幽体離脱的なイメージに見えます。
夢のように消え去って――死か、目覚めか
みんな夢のように消え去って
この一節は、二つの方向に読めます。
ひとつは、死です。存在そのものが、夢のように消える。
もうひとつは、逆に夢から戻る感覚かもしれない。幽体離脱のように外へ出た意識が、また夢の中へ戻る。あるいは、夢から覚めた瞬間に、見ていた世界が消える。
「ビー玉」の世界では、死と夢がかなり近い場所にあります。死ぬことも、眠ることも、タマシイが転がることも、同じ丸いイメージの中に入っている感じがします。
空色のナイフと血の海――青と赤の対比
空色のナイフを手に持って 真っ赤な血の海を
ここは、かなり強い映像です。
青と赤が、はっきり対比されています。空の色と血の色。夢の色と死の色。
マサムネさんはロッキング・オン・ジャパンでこう語っています。
“ビー玉”の歌詞とか作った時なんかは、自分の私生活と重なったりとか、コントロールできないとこもあって、実際、自分で聴いても、一人で暗くなったりもしたんだけど……。 出典:『スピッツ』(「ロッキング・オン・ジャパン」1993年9月号)
歌詞の源泉には、私小説的な要素というか、制御不能な部分もあったようです。翌94年5月号では、ビー玉のイメージの輪郭が、少し語られています。
これは昭和40年代のちょっとアングラっぽい映画に出てくる恋愛ストーリーみたいなイメージだったんですよね。心中ものみたいな。この頃って、女の子に対する復讐じゃないけど(笑)、そういうサディスティックな感情を歌う気持ちよさがすごくあって 出典:『スピッツ』(「ロッキング・オン・ジャパン」1994年5月号)
この「映画」が何かはここでは明言されていませんが、マサムネさんは2019年のラジオ番組「ロック大陸漫遊記」の中で、寺山修司監督の『田園に死す』(1974年)を「すごく好きな映画」として挙げていたようです。また、“真っ赤な血の海を飛び越えてきたんだよ” の歌詞のイメージと同じような、象徴的な真っ赤な海の映像が流れます。
他の映画もミックスされているのかもしれませんが、『田園に死す』がモチーフである可能性は非常に高い気がしてます。『田園に死す』は心中的な要素もあり、また、強烈な色彩を持つ作品。『ビー玉』が参照していた世界観として、この作品はかなり近い場所にありそうです。
「田園に死す」はさらに、大人になった主人公が過去の自分を映画として撮るという入れ子構造を持っています。 現実と虚構が重なり合い、どちらが夢かわからなくなる。「ビー玉」の、毛布の中から夢越しに「お前の最後をみてやる」という視点は、その構造とも重なります。
オケラも鳴いていた――現実世界へ戻る音
オケラも鳴いていた
最後に「オケラ」が出てくることで、歌はふっと現実に戻ります。
それまでの世界は、浮遊したまま、かなり夢の中に寄っているように見えます。でも「オケラ」の登場によって、現実に引き戻されます。また、「おけら鳴く」とは、秋の夜の淋しさを表す季語でもあり、現実世界の季節や時間も具体的に連想させるわけです。
「オケラも鳴いていた」という一言で、タマシイの世界から、土のある現実世界へ引き戻されます。
毛布の中で見ていた夢。ビー玉のように転がっていたタマシイ。そのあとに、外では虫が鳴いている。
まとめ
ビー玉=タマシイ。 「チィパチィパ」は、ビー玉=タマシイ同士がぶつかる音。
柔らかい毛布は、夢の世界へ入るための小道具。そこから幽体離脱のように、意識だけが現実を離れていく。
「お前の最後をみてやる」は、おそらく執着。「涙の星」は、死の暗示でもあり、タマシイの丸い形でもある。
「空色のナイフ」と「血の海」では、青と赤がぶつかり、夢の中の映像が死の気配を帯びる。ただ、視点はタマシイのまま浮遊している。
そして最後に「オケラも鳴いていた」と置かれる。タマシイの世界から、土のある夜の現実へ戻っていくわけです。おそらく、最初から一人で毛布にくるまっていて、戻った世界でも一人のまま。

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