スピッツ『ベビーフェイス』歌詞解釈──少し無垢に生き直す歌

スピッツの「ベビーフェイス」は、1994年4月25日発売のシングル「空も飛べるはず」のカップリング曲で、同年9月21日発売のアルバム『空の飛び方』にも収録されています。

明るくポップな手触りの曲ですが、歌詞の中で「星になったあいつ」と、はっきりと死別を歌っています。私はこの曲を、亡くなった誰かを思いながら、残された人がどう生き直すかを歌った曲として聴きました。

1 タマシイの世界は、隠し事まで声を持ってしまう

隠し事のすべてに声を与えたら ざらついた優しさに気づくはずだよ

「隠し事」に声を与える、という表現がとても不思議です。

隠し事は、本来なら隠されたままのものです。
言わないままにできることもある。ごまかせることもある。相手に見せずに済ませられることもある。

でも、死別の歌として読むと、「声を与える」という言葉が意味を持って聞こえてきます。

人が死んで魂になったあとには、生きている時には見えなかったことまで見えてしまう。
あるいは、こちらが死者を思う時、生前には隠していたことまで、心の中で声を持ちはじめる。

隠し事のすべてに声を与えたら」という言葉からは、1990年の大ヒット映画『ゴースト/ニューヨークの幻』のような構図も思い浮かびます。
あの映画では、死んだ恋人はそばにいるのに、自分の声を直接届けることができません。けれど、霊媒師を通すことで、ようやく思いが声になります。

「ベビーフェイス」のこの一節も、それに近い感覚があります。生きているあいだには言えなかったこと、隠していたこと、伝わらなかった気持ちが、死別のあとでようやく声を持つ。
その時に見えてくるものは、きれいなものばかりではないと思います。
ずるさもある。言えなかったこともある。
けれど、それらを全部さらけ出した時、その奥に「ざらついた優しさ」くらいはあったのではないか。

この「ざらついた」という言葉が、すごく特徴的です。
不器用な、手触りの悪い優しさです。でも、それでも優しさではあった。
死んだあとに全部ばれてしまうとしても、そこに優しさぐらいはあったよね、という祈りのように聞こえます。

2 真昼の夢──生きている現実のほうが夢である

真昼の夢を壊さないように

この曲では、「真昼の夢」という言葉が印象的に出てきます。

普通、夢は夜に見るもの。でもここでは、昼の現実そのものが夢のように扱われている。恐らく、今生きていること自体を夢にたとえている。

亡くなった人の側から見れば、生きている人たちの日常は、まだ覚めていない夢のようなものかもしれません。今日と同じように、明日も続くと思っている。

でも、それは絶対の現実ではない。いつか壊れる。いつか目が覚める。

だから「真昼の夢」を壊さないように、という言葉は、幻想を守ろうとしているのではなく、今生きているこの世界の壊れやすさを知ったうえで、それでも大事に扱おうとしている言葉に聞こえます。

死んだ人がいて、残された人がいる。
その残された人の日常は、以前と同じようでいて、もう同じではない。
現実のほうが、どこか夢のように揺らいでいる。

3 愚かになれもっと──空から見られてもいいように

愚かになれもっと

最後の「愚かになれもっと」という言葉は、印象的です。歌詞の中で異質な響きを持っていて、警句のように聞こえます。

うまく隠したり、虚飾とか、そういうズル賢さを手放せと言っているように感じます。

なぜなら、死んだあいつが空から見ているからです。

空から見られてもいいように生きる。隠し事が全部声を持ってしまっても、そこに優しさが残るように生きる。

4 ベビーフェイス=死者の前で保ちたい無垢

タイトルの「ベビーフェイス」も、この読み方に重なってきます。

ベビーフェイスとは、幼い顔、無垢な顔です。
何も知らない顔。
まだ汚れきっていない顔。

この曲では、それが単なる若さではなく、タマシイの無垢な姿のように感じられます。

人は生きていれば、どうしても隠し事が増えます。
きれいなことだけでは済まなくなる。
大人になるほど、賢くなるほど、どこかで自分を守るための嘘も覚えてしまう。

でも、死んだあいつが空から見ている。
その視線を思った時に、せめて自分の中の小さな炎だけは絶やさないでいたい。
全部きれいには生きられなくても、優しさのようなものだけは残していたい。

「ベビーフェイス」は、そういう歌に聞こえます。

死んだ人を思いながら、残された側が少しだけ生まれ変わろうとする歌。

空から見られてもいいように。

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